地域社会支える民生委員、「生みの親」は熊本出身 林市蔵ゆかりの地をめぐる

地域社会支える民生委員、「生みの親」は熊本出身 林市蔵ゆかりの地をめぐる

ぶらり新町・古町

熊本市の新町・古町をぶらぶらと歩く。熊本市横手出身の林市蔵(1867-1952)は、住民の相談に乗って地域社会を支える民生委員の制度づくりに貢献し、「民生委員の父」と言われる。市蔵の記念碑や墓などのゆかりの地をめぐった。

熊本城・行幸橋そばに胸像と記念碑

林市蔵

三角公園にある林市蔵の記念碑。元民生委員の村田守さんが案内してくれた=熊本市中央区花畑町

最初に向かったのは、熊本市中央区花畑町の行幸橋そばにある市蔵の胸像と記念碑。三角公園の加藤清正像の横に胸像があり、脇にある記念碑には「隣人愛」「深則新」と刻まれている。「深則新」は市蔵による活動教訓で、一つの問題を深く掘り下げ、そこに困難な課題があれば新しい勇気を持って工夫と努力を重ねるという言葉だ。

「隣人愛をもって社会福祉の増進に努めます」「常に地域社会の実情を把握することに努めます」。民生委員の信条も紹介されている。

大阪府知事時代に貧困支援制度 全国普及し民生委員誕生へ

林市蔵

林市蔵

林市蔵は1918年、大阪府知事だった時に、地域の貧困や生活問題を援助する民間の奉仕制度をつくった。もともとは岡山県で行われていた地域の貧困層調査が制度の端緒だという。

その制度が大阪で花が咲き、全国に普及。いまの民生委員制度が確立したとされている。1927年には熊本でも委員が誕生した。

取材に同行してくれた元民生委員の村田守さんは「民生委員の会合では、林市蔵さんの考え方を尊重し、委員がまず信条を読み上げます」と話してくれた。

墓は横手の長国寺に 今も地域の民生委員が墓参

市蔵の墓は、横手の長国寺にあった。金峰山をあおぐ寺の西側の一角に、大理石の墓石があった。住職によると、確かに林家の墓だが、骨は神戸に移されたという。それでも寺が掃除をして時々花が添えられ、地域の民生委員がお参りに来る。

林市蔵

長国寺にある墓。無縁仏となった墓石。清掃されていた。近くでは無縁仏となった墓石がたくさん積み上げられていた=熊本市西区横手

生家跡の祠 球磨工高経て東日本大震災の被災神社へ

市蔵の生家があったという高麗門の近くに着いた。生家跡にはかつて、市蔵が建てたという、菅原道真をまつる祠(ほこら)があった。

市蔵は父親が早くに亡くなり、母親に女手一つで育てられた。母はたばこ巻きで生計を立てた。貧しかったが、済々黌高から東大で学び、官僚になった。終戦後に民生委員の廃止が検討された際は、存続に力を入れたという。

祠は、くぎ一つ使わない立派な造り。あったところが新幹線の高架に引っかかったこともあり、宮大工を育成することで有名な球磨工高(熊本県人吉市)にいったん寄付された。その後、東日本大震災による津波で社殿を失った福島県南相馬市の神社に寄贈された。

林市蔵

林市蔵の建てた祠が球磨工高に引き取られることになったことを伝える2005年10月31日付熊本日日新聞朝刊

球磨工高に引き取られた祠が福島県南相馬市の神社に寄贈されることを伝える2013年8月19日付熊本日日新聞朝刊

かつて、祠の近くに住んでいた元民生委員の岩永邦子さんは「この辺りは鹿児島本線の踏切や公園がありました」と昔を懐かしんだ。岩永さんの自宅には、祠の中にあったという菅原道真の座像が大切に置かれていた。

岩永邦子さんの自宅にある菅原道真の座像。祠の中にあった。「ご神体をつくる過程で座像もつくられたのでしょうか」と岩永さん

熊本市内に民生委員は1300人ほどいるが、人材確保が難しくなっているという。高齢化が進み、ご老人の孤立などが大きな社会問題になる中、市蔵の意思をつなぐ担い手が求められている。

林市蔵ゆかりのスポット

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